2011年10月20日
楽しむ姿が、誰よりも魅力的なアイドル
10年前には、ガキさんがリーダーになるという現在の状況が、まったく想像のつかないものでした。……、実は今でもあんまり想像がつきません。しっかり者というイメージも完全に定着しましたし、みんなから頼りにされているガキさん。これからのガキさんに大いに期待しています。でもやっぱり、それと同時に誰よりもモーニング娘。を楽しんでいるガキさんでいて欲しいと思います。
ガキさんのブログでは以前ほどたくさんの更新があるわけではありませんが(以前は本当に多かった;)ステージ前の緊張とか、終了後の安堵感とか、そのさらに後の仲間(後輩)と楽しんでいる様子とか、そうしたことを書いてくれています。たとえばミュージカル「リボーン」では、ガキさんは堅め、怖めのキャラクターを演じていましたけど、やっぱり舞台前は緊張しているみたい、舞台後ははっちゃけているみたいです。そうしたガキさんの「素」の部分って、以前ほど見られなくなったかもしれませんが、そういうガキさんが好きです。
演じきっているガキさんも好きですし、リーダーシップを発揮しているところも魅力ありですけど、でもモーニング娘。を愛し、モーニング娘。を自分から楽しむ、そんな姿でこれまでファンを魅了してきた、そんなガキさんならではのリーダー像みたいのが、「リボーン」ではちょくちょく見られました。
たくさんの後輩を前に、使命感とか戸惑いとか、そうしたのも伝わってくるけれど、根本の部分ではモーニング娘。を楽しんでいる。だから、それを見ているファンも一緒になって楽しんでいる。そのガキさんの魅力、この一年もまだまだ続きますように。
23歳。心から、おめでとうございます。
ガキさんのブログでは以前ほどたくさんの更新があるわけではありませんが(以前は本当に多かった;)ステージ前の緊張とか、終了後の安堵感とか、そのさらに後の仲間(後輩)と楽しんでいる様子とか、そうしたことを書いてくれています。たとえばミュージカル「リボーン」では、ガキさんは堅め、怖めのキャラクターを演じていましたけど、やっぱり舞台前は緊張しているみたい、舞台後ははっちゃけているみたいです。そうしたガキさんの「素」の部分って、以前ほど見られなくなったかもしれませんが、そういうガキさんが好きです。
演じきっているガキさんも好きですし、リーダーシップを発揮しているところも魅力ありですけど、でもモーニング娘。を愛し、モーニング娘。を自分から楽しむ、そんな姿でこれまでファンを魅了してきた、そんなガキさんならではのリーダー像みたいのが、「リボーン」ではちょくちょく見られました。
たくさんの後輩を前に、使命感とか戸惑いとか、そうしたのも伝わってくるけれど、根本の部分ではモーニング娘。を楽しんでいる。だから、それを見ているファンも一緒になって楽しんでいる。そのガキさんの魅力、この一年もまだまだ続きますように。
23歳。心から、おめでとうございます。
2010年11月14日
3Dアイドルの諸問題 ーほんとうにあった怖い話3Dー
ガキさん映画初主演となる「ほんとうにあった怖い話3D」を先日、映画館で見てきました。実は3D映画自体、わたしにとって初の体験でした。初3Dがガキさん映画というのが、なんとなくうれしいです。
この映画はガキさんにとって初めてのホラー出演となっているわけで、ガキさん自身ラジオで「怯える演技が難しかった」というようなことを言っています。見る側にとっても怯えるガキさんというのは新鮮な感じがしました。ガキさんも経験したことがないのでしょうね。古びたトイレで血みどろのお化けに指をさされることは。実を言うとわたしもそういった経験は一度もありません。目を丸くして眉根を寄せた感じは、怖がっているようにも悲しんでいるようにも見え、映画のストーリーとよくあっていたと思います。
さて3Dです。この映画のように学校や道など、日常的な風景が3Dになっているとすごい臨場感があります。質感のようなものまで伝わってきます。女子高生役の人が背中を向けたときにブラウスがリアル過ぎて、下着が透けて見えやしないかとひやひやしたほどです。幸い見えませんでした。ところで日本で売っているブラウスってどうしてあんなに透けやすいんでしょうか。どうせなら汗ばんだ箇所だけべっとり赤く染まる仕様にすれば、見かけた人がゾゾーッとなって暑さも乗り切れると思うのですが。
話を戻して、これからの時代、こんな3Dが普通に楽しめるようになるのでしょうか。最近はハロプロの映像作品もブルーレイで出てますしね。モーニング娘。は3D大使に選ばれたことですし、それでなくてもだんだんアイドル作品にも3Dが多くなっていくことでしょう。3Dミュージックビデオ、3Dライブビデオ、3Dイメージビデオ。
確かに臨場感あふれるリアルな映像は増えたらいいと思います。しかし映画を見ていて感じたのは、単に「いいな」と言うだけではありませんでした。
一つ目は焦点の問題です。3Dカメラといっても手前から奥まで全部がくっきりというわけにはいきません。当然ですが。焦点部分は非常に鮮明に(気持ち悪いくらいくっきりと)見えるのですが、それ以外の部分は、結構ぶれたように見えます。特に焦点よりも手前にあるオブジェクトを見ようとすると、露骨にぶれます。劇中に中島さんと新垣さんが会話をする場面があります。中島さんの顔が見える角度で、向き合っているガキさんはこちらに背中を向けています。もちろん表情が見えるなっきぃの方に焦点が当たります。物語的にも気まずそうななっきぃの表情が重要なパートです。そうすると、それよりも手前にいるガキさんは非常に見づらいわけです。わたしのように内容よりもガキさんに興味があって見に来た、という人にとっては2Dよりもずっと見づらい映像になってしまいます。あと、女の子の顔よりも後頭部が好きだ、というフェチの人も困ってしまうでしょう。
奥行きのある風景なのに、見たいところが見られない。無理矢理見ようとするとピンぼけした映像になってしまう。焦点問題は2Dよりも深刻に感じます。実際すごく目が疲れました。
最初は、まだ技術が未発達なのかな、とも思いましたが、おそらく解決するつもりがないのだと思います。映画監督としては、自分の見せたい部分に観客の目を集中させられるわけで、作成者の意図と無関係な見方を制限できます。客は映像の指示通りに目線を動かさざるを得なくなります。ほかの部分を見ようにも、ぼやけてろくに見られませんから。「別にあまのじゃくな見方をしないで、監督の考えたとおりに楽しめばいいんじゃないか」と言う人もいるでしょうが、それでも映像は見たいように見たい。何度も見る映画は「背景はどうなっているのか」とか「こっちの脇役はどんな演技をしているのか」と細かいところまで見たいものです。「次はここを見ましょう。その次はここです」と指示通りに目を動かすだけなら、私たちの脳は映像に対して完全に受け身になります。「よーし、見るぞ!」なんて気合いを入れなくても、予定調和的に目線を動かすだけでいい。
もしこの技術がアイドルのミュージックビデオにも使われたらどうなるでしょうか。現在でも歌番組で多く映るのはボーカルメンバーです。一曲通してほとんど映らない、というメンバーだっています。でも奥にいるバックメンバーを見ている人はたとえ映りが小さくとも、好きなメンバーをみたいじゃないですか。そうやって新人メンバーとかに注目するヲタがいるからこそ、アイドルが活性化していく。それが視聴者の映像を誘導するような3Dになったら、事務所の注目させたいメンバーしか見ることのできない映像のできあがりです。繰り返しますが「事務所はこのコを売り出しているけど、おれは後ろのコがかわいいと思う」という状態はアイドルにとってすごく重要です。アイドル推しは予定調和ではあり得ない。もし事務所の売りたいメンバーしか見ることができなくなってしまったら、それはアイドル推しという行為の死を意味します。
もうひとつ、ハイビジョン映像にとって避けられないであろう「不気味の谷」の問題も3Dでは進んでいきます。映像がリアルになればなるほど、本物との違いが気になってしまう、という問題です。「トイ・ストーリー」に出てくるおもちゃたちの表情は違和感なく楽しめても、人間キャラには違和感を感じた、なんてことはないでしょうか。「シュレック」に出てくる異性物はかわいいのに、人間の方が気持ち悪かった、とか。本来、親近感を覚えるはずの方が、身近なだけに違和感も大きい。それが「不気味の谷」です。で、今度はそれが実写版映画においても起こるんじゃないのか、とわたしは考えています。奥行きを持った映像は、2Dなんかよりもずっとリアルです。このリアルというのが問題で、触れられそうなくらい立体的な分、現実と映像との微妙な差異に違和感を覚えてしまうんですね。「ほんとうにあった怖い話3D」でも、お化けがリアル過ぎて、お化けというより実体に見えてしまいました。ほら、お化けっているのかいないのかわからないくらいの方が怖いじゃないですか。3Dだと存在感がありすぎる。
それから劇中に大写しにされるポーチのスケール感も気になりました。化粧ポーチが映画館の大スクリーンに映っても、ポーチが巨大化したとは通常は思いません。画面フレームの中でいくら大きくなっても、その中の出来事ですから。しかし3Dでは枠を無視して飛び出してきます。しかもリアルです。そうするとわたしの脳みそはついて行かれずに、ポーチ的な巨大な何かを前に戸惑うばかり。ポーチの形をしたかばんです。
私たちの身の回りにあるものにはアフォーダンスがあります。化粧ポーチを見れば片手でつかむことを無意識に連想しますし、かばんを見れば抱えて持つことを無意識に連想します。ポーチやかばんがそうした情報を投げかけてくるからです。しかし3Dに大写しにされたポーチは存在感がありすぎた。画面に映っているのはポーチに違いないことはわかっていてもスケール感が狂っていて「つかむ」というよりも「抱える」ものに見えてしまいます。「慣れの問題じゃないの」と言う人もいるかもしれません。しかしこの立体感のある巨大なポーチにわたしたちの目が慣れてしまうということは、すなわちわたしたちの現実感が希薄になるということにもなるんじゃないでしょうか。現実のポーチよりも3D映像の方に慣れてしまうのですから。
現実よりも存在感を持ち始めるデジタル映像。この差は技術で狭まりはしても埋まることはありません。現実のものと、立体的に見えるように加工されたデジタル映像との差がゼロになることはあり得ませんから。両者は本質的に別物です。不気味の谷が残り続けるか、それとも慣れてしまって現実世界の方が色あせていくのか、どちらかだと思います。それはそれでいいですけどね。現実世界がいつでも色鮮やかで楽しいとは限りませんから。
ではアイドルのイメージビデオが3D化したら?生身の女の子よりも、ビデオの中のアイドルの方が存在感を持ってしまうとしたら?
映画で見たガキさんは、いつもライブで遠くの席から見るガキさんと違って、細かなところまでくっきり見えました。鼻のほくろとか。さっきお化けがリアル過ぎてもはやお化けに見えない、と書きましたがアイドルにも似たようなところがあるのではないでしょうか。アイドルといえば、テレビの中の天使、ベールの向こうにいる女神、そういう楽しみ方をする人が多いです。現実世界の彼女よりもアイドルが身近になったらもはやアイドルではないでしょう。距離感は人それぞれでしょうが、ちょっと手の届かないくらいの方が、アイドルとして推しやすい。それが3Dで手の届く位置に現れたら?繰り返しますが3Dは立体的な現実を写し取る技術ではなく、あくまで立体的に見えるように加工された平面映像に過ぎません。存在感、立体感を持つように加工された女の子。それってCGで描かれた美少女キャラといったいどう違いますか?
アイドルの3D化によって、アイドルはCGとの差異を失っていくのかもしれません。それもCGが人に近づくのではなく、人がCGに近づいていく方向です。そしてわたしたちの感性が人間よりも映像に慣れてしまう。アイドルよりも人形の方に説得力を感じるようになる。「テレビで見るよりきれいですね」というほめているのかけなしているのかわからない言葉も、もはやテレビ写りの問題ではなく、デジタル加工されたイメージと実物との比較になるわけですね。
現実よりも遥かに訴求力の強いデジタル映像。リアルよりも遥かに存在感のあるデジタルアイドル。それを楽しむくらいの覚悟が必要な時代にいよいよ突入したのでしょうか。それと同時に現実に踏みとどまることも選択肢に入れておくべきかもしれません。アイドル追っかけの現場で感じたことを映像イメージよりも大切にする姿勢を取ること。テレビにどう映ろうが、あくまで現場の生きた感性でアイドルを語る。そういうアイドル語りを続けていきたいなあ、と感じています。
ガキさんにとって初のホラー出演
この映画はガキさんにとって初めてのホラー出演となっているわけで、ガキさん自身ラジオで「怯える演技が難しかった」というようなことを言っています。見る側にとっても怯えるガキさんというのは新鮮な感じがしました。ガキさんも経験したことがないのでしょうね。古びたトイレで血みどろのお化けに指をさされることは。実を言うとわたしもそういった経験は一度もありません。目を丸くして眉根を寄せた感じは、怖がっているようにも悲しんでいるようにも見え、映画のストーリーとよくあっていたと思います。
3D作品のこれから
さて3Dです。この映画のように学校や道など、日常的な風景が3Dになっているとすごい臨場感があります。質感のようなものまで伝わってきます。女子高生役の人が背中を向けたときにブラウスがリアル過ぎて、下着が透けて見えやしないかとひやひやしたほどです。幸い見えませんでした。ところで日本で売っているブラウスってどうしてあんなに透けやすいんでしょうか。どうせなら汗ばんだ箇所だけべっとり赤く染まる仕様にすれば、見かけた人がゾゾーッとなって暑さも乗り切れると思うのですが。
話を戻して、これからの時代、こんな3Dが普通に楽しめるようになるのでしょうか。最近はハロプロの映像作品もブルーレイで出てますしね。モーニング娘。は3D大使に選ばれたことですし、それでなくてもだんだんアイドル作品にも3Dが多くなっていくことでしょう。3Dミュージックビデオ、3Dライブビデオ、3Dイメージビデオ。
焦点問題
確かに臨場感あふれるリアルな映像は増えたらいいと思います。しかし映画を見ていて感じたのは、単に「いいな」と言うだけではありませんでした。
一つ目は焦点の問題です。3Dカメラといっても手前から奥まで全部がくっきりというわけにはいきません。当然ですが。焦点部分は非常に鮮明に(気持ち悪いくらいくっきりと)見えるのですが、それ以外の部分は、結構ぶれたように見えます。特に焦点よりも手前にあるオブジェクトを見ようとすると、露骨にぶれます。劇中に中島さんと新垣さんが会話をする場面があります。中島さんの顔が見える角度で、向き合っているガキさんはこちらに背中を向けています。もちろん表情が見えるなっきぃの方に焦点が当たります。物語的にも気まずそうななっきぃの表情が重要なパートです。そうすると、それよりも手前にいるガキさんは非常に見づらいわけです。わたしのように内容よりもガキさんに興味があって見に来た、という人にとっては2Dよりもずっと見づらい映像になってしまいます。あと、女の子の顔よりも後頭部が好きだ、というフェチの人も困ってしまうでしょう。
奥行きのある風景なのに、見たいところが見られない。無理矢理見ようとするとピンぼけした映像になってしまう。焦点問題は2Dよりも深刻に感じます。実際すごく目が疲れました。
最初は、まだ技術が未発達なのかな、とも思いましたが、おそらく解決するつもりがないのだと思います。映画監督としては、自分の見せたい部分に観客の目を集中させられるわけで、作成者の意図と無関係な見方を制限できます。客は映像の指示通りに目線を動かさざるを得なくなります。ほかの部分を見ようにも、ぼやけてろくに見られませんから。「別にあまのじゃくな見方をしないで、監督の考えたとおりに楽しめばいいんじゃないか」と言う人もいるでしょうが、それでも映像は見たいように見たい。何度も見る映画は「背景はどうなっているのか」とか「こっちの脇役はどんな演技をしているのか」と細かいところまで見たいものです。「次はここを見ましょう。その次はここです」と指示通りに目を動かすだけなら、私たちの脳は映像に対して完全に受け身になります。「よーし、見るぞ!」なんて気合いを入れなくても、予定調和的に目線を動かすだけでいい。
アイドル映像がかえって平坦に
もしこの技術がアイドルのミュージックビデオにも使われたらどうなるでしょうか。現在でも歌番組で多く映るのはボーカルメンバーです。一曲通してほとんど映らない、というメンバーだっています。でも奥にいるバックメンバーを見ている人はたとえ映りが小さくとも、好きなメンバーをみたいじゃないですか。そうやって新人メンバーとかに注目するヲタがいるからこそ、アイドルが活性化していく。それが視聴者の映像を誘導するような3Dになったら、事務所の注目させたいメンバーしか見ることのできない映像のできあがりです。繰り返しますが「事務所はこのコを売り出しているけど、おれは後ろのコがかわいいと思う」という状態はアイドルにとってすごく重要です。アイドル推しは予定調和ではあり得ない。もし事務所の売りたいメンバーしか見ることができなくなってしまったら、それはアイドル推しという行為の死を意味します。
不気味の谷
もうひとつ、ハイビジョン映像にとって避けられないであろう「不気味の谷」の問題も3Dでは進んでいきます。映像がリアルになればなるほど、本物との違いが気になってしまう、という問題です。「トイ・ストーリー」に出てくるおもちゃたちの表情は違和感なく楽しめても、人間キャラには違和感を感じた、なんてことはないでしょうか。「シュレック」に出てくる異性物はかわいいのに、人間の方が気持ち悪かった、とか。本来、親近感を覚えるはずの方が、身近なだけに違和感も大きい。それが「不気味の谷」です。で、今度はそれが実写版映画においても起こるんじゃないのか、とわたしは考えています。奥行きを持った映像は、2Dなんかよりもずっとリアルです。このリアルというのが問題で、触れられそうなくらい立体的な分、現実と映像との微妙な差異に違和感を覚えてしまうんですね。「ほんとうにあった怖い話3D」でも、お化けがリアル過ぎて、お化けというより実体に見えてしまいました。ほら、お化けっているのかいないのかわからないくらいの方が怖いじゃないですか。3Dだと存在感がありすぎる。
それから劇中に大写しにされるポーチのスケール感も気になりました。化粧ポーチが映画館の大スクリーンに映っても、ポーチが巨大化したとは通常は思いません。画面フレームの中でいくら大きくなっても、その中の出来事ですから。しかし3Dでは枠を無視して飛び出してきます。しかもリアルです。そうするとわたしの脳みそはついて行かれずに、ポーチ的な巨大な何かを前に戸惑うばかり。ポーチの形をしたかばんです。
アフォーダンスを揺さぶられる
私たちの身の回りにあるものにはアフォーダンスがあります。化粧ポーチを見れば片手でつかむことを無意識に連想しますし、かばんを見れば抱えて持つことを無意識に連想します。ポーチやかばんがそうした情報を投げかけてくるからです。しかし3Dに大写しにされたポーチは存在感がありすぎた。画面に映っているのはポーチに違いないことはわかっていてもスケール感が狂っていて「つかむ」というよりも「抱える」ものに見えてしまいます。「慣れの問題じゃないの」と言う人もいるかもしれません。しかしこの立体感のある巨大なポーチにわたしたちの目が慣れてしまうということは、すなわちわたしたちの現実感が希薄になるということにもなるんじゃないでしょうか。現実のポーチよりも3D映像の方に慣れてしまうのですから。
現実よりも存在感を持ち始めるデジタル映像。この差は技術で狭まりはしても埋まることはありません。現実のものと、立体的に見えるように加工されたデジタル映像との差がゼロになることはあり得ませんから。両者は本質的に別物です。不気味の谷が残り続けるか、それとも慣れてしまって現実世界の方が色あせていくのか、どちらかだと思います。それはそれでいいですけどね。現実世界がいつでも色鮮やかで楽しいとは限りませんから。
人形化するアイドル
ではアイドルのイメージビデオが3D化したら?生身の女の子よりも、ビデオの中のアイドルの方が存在感を持ってしまうとしたら?
映画で見たガキさんは、いつもライブで遠くの席から見るガキさんと違って、細かなところまでくっきり見えました。鼻のほくろとか。さっきお化けがリアル過ぎてもはやお化けに見えない、と書きましたがアイドルにも似たようなところがあるのではないでしょうか。アイドルといえば、テレビの中の天使、ベールの向こうにいる女神、そういう楽しみ方をする人が多いです。現実世界の彼女よりもアイドルが身近になったらもはやアイドルではないでしょう。距離感は人それぞれでしょうが、ちょっと手の届かないくらいの方が、アイドルとして推しやすい。それが3Dで手の届く位置に現れたら?繰り返しますが3Dは立体的な現実を写し取る技術ではなく、あくまで立体的に見えるように加工された平面映像に過ぎません。存在感、立体感を持つように加工された女の子。それってCGで描かれた美少女キャラといったいどう違いますか?
アイドルの3D化によって、アイドルはCGとの差異を失っていくのかもしれません。それもCGが人に近づくのではなく、人がCGに近づいていく方向です。そしてわたしたちの感性が人間よりも映像に慣れてしまう。アイドルよりも人形の方に説得力を感じるようになる。「テレビで見るよりきれいですね」というほめているのかけなしているのかわからない言葉も、もはやテレビ写りの問題ではなく、デジタル加工されたイメージと実物との比較になるわけですね。
現実よりも遥かに訴求力の強いデジタル映像。リアルよりも遥かに存在感のあるデジタルアイドル。それを楽しむくらいの覚悟が必要な時代にいよいよ突入したのでしょうか。それと同時に現実に踏みとどまることも選択肢に入れておくべきかもしれません。アイドル追っかけの現場で感じたことを映像イメージよりも大切にする姿勢を取ること。テレビにどう映ろうが、あくまで現場の生きた感性でアイドルを語る。そういうアイドル語りを続けていきたいなあ、と感じています。
2010年10月20日
22歳の誕生日に −そのままでいつづけるアイドルへ−
お誕生日おめでとうございます。
「一緒に年をとっていきましょう」
12歳で入ってきて、今22歳。10年間という長い時間。
娘。に入ることがガキさんの夢で12歳で夢が叶った。その後に10年間、相当な努力を要する仕事だと思いますが、それを10年間。
僕は、アイドルというのは一瞬の輝きのことだと、ずっと思っていたんです。一度かぎりの「青春」とか「若さ」こそがアイドルの領域だと、ずっと思ってた。ある程度、年季が入ってくると、「歌手として」「役者として」「タレントとして」は成長するし魅力的にもなるんですが、アイドルとしてずっと輝き続けられるわけではない。
その考えそのものは今も変わっていません。
でも、愛ちゃんもそうだし、ガキさんも、優れた役者になりつつある、優れた歌手になりつつあるんだけれど、同時に「役者」とか「歌手」というカテゴリーに括られるのを拒むような魅力を主張してくる。これは、モーニング娘。という箱がそうさせるのか、それ以外の理由か。理由はわかりませんが、やっぱりプロとしての発言よりも先に「ファンの皆さんと一緒に年をとっていきたい」という発言が出てくるあたり、ガキさんは今でもずっとアイドルしているんだなあ、と感じます。
緑のサイリウムに向かって「ありがたや〜」これはたぶん照れ隠し。客席に向かって「愛を贈るね」とハートを描く。これも猛烈に照れながら。いくつになっても慣れない感じの行動、素人臭さの抜けない行動。実力がついてきているといっても、決して手の届かない高みに立とうとはしない。あくまでメンバーと一緒に、ファンと一緒に。そういう魅力って、アーティストにはできない。アイドルにしかできない。この魅力、アイドルを応援してみないと、アイドルとともに駆け抜けるような経験をしてみないと、完全にはわからないんだろうなぁ。それが10年も続いているというのはすごい。それを今年も目撃できているというのは、嬉しい限り。
2008年10月20日の、このブログでこんなこと書いてます。
今年もまったく同じ感想を持てている。
あんまり高望みするもんじゃないけど、とりあえず
来年も、同じ気持ちで「おめでとう」と言えますように。
「一緒に年をとっていきましょう」
12歳で入ってきて、今22歳。10年間という長い時間。
娘。に入ることがガキさんの夢で12歳で夢が叶った。その後に10年間、相当な努力を要する仕事だと思いますが、それを10年間。
僕は、アイドルというのは一瞬の輝きのことだと、ずっと思っていたんです。一度かぎりの「青春」とか「若さ」こそがアイドルの領域だと、ずっと思ってた。ある程度、年季が入ってくると、「歌手として」「役者として」「タレントとして」は成長するし魅力的にもなるんですが、アイドルとしてずっと輝き続けられるわけではない。
その考えそのものは今も変わっていません。
でも、愛ちゃんもそうだし、ガキさんも、優れた役者になりつつある、優れた歌手になりつつあるんだけれど、同時に「役者」とか「歌手」というカテゴリーに括られるのを拒むような魅力を主張してくる。これは、モーニング娘。という箱がそうさせるのか、それ以外の理由か。理由はわかりませんが、やっぱりプロとしての発言よりも先に「ファンの皆さんと一緒に年をとっていきたい」という発言が出てくるあたり、ガキさんは今でもずっとアイドルしているんだなあ、と感じます。
緑のサイリウムに向かって「ありがたや〜」これはたぶん照れ隠し。客席に向かって「愛を贈るね」とハートを描く。これも猛烈に照れながら。いくつになっても慣れない感じの行動、素人臭さの抜けない行動。実力がついてきているといっても、決して手の届かない高みに立とうとはしない。あくまでメンバーと一緒に、ファンと一緒に。そういう魅力って、アーティストにはできない。アイドルにしかできない。この魅力、アイドルを応援してみないと、アイドルとともに駆け抜けるような経験をしてみないと、完全にはわからないんだろうなぁ。それが10年も続いているというのはすごい。それを今年も目撃できているというのは、嬉しい限り。
2008年10月20日の、このブログでこんなこと書いてます。
来年も同じ気持ちで「おめでとう」て言えたらいいなあ。だってハロプロは変わるけど、ハッピーガールが持つハッピーの中身は、変わらないでいて欲しいから。 ?
今年もまったく同じ感想を持てている。
あんまり高望みするもんじゃないけど、とりあえず
来年も、同じ気持ちで「おめでとう」と言えますように。
2010年07月19日
機能的システムとしてのアイドル −10年代のアイドルを予想する−
文化の歴史は分化の歴史である
人が注目する文化は、基本的に価値が細分化していきます。たとえば日本の漫画創世記を支えた手塚治虫の作品は、笑いも冒険も戦いも友情も社会批評もすべての要素がない交ぜになっています。それがだんだんコメディ漫画、冒険漫画、社会派漫画、格闘漫画という風に分かれていきます。で、コメディ漫画からはさらに細かく「ちびまる子ちゃん」や「クレヨンしんちゃん」などのホームコメディ、スラップスティックコメディ(ドタバタギャグ漫画)、不条理漫画、などいろいろな系が分かれていきます。文化というのは長く動くと、その分だけジャンルが細分化していくんですね。文化の歴史は分化の歴史であると言えます。
70年代〜00年代 −機能分化するアイドル−
人気者を意味する「アイドル」もやはり、時代とともに細分化していきます。最初は人気ものは存在自体が特別な人のことだと考えられていました。70年代はスターの時代です。80年代になると、「陰ではどうかわからないけど、テレビの前では格好いい人・かわいい人」が人気者になります。「アイドル」という文化領域が誕生したアイドルの時代です。90年代になると、彼ら・彼女らの為す仕事を見て「ピュア派」「ダンス派」「演技派」「歌唱力派」など、細かな価値基準で、人気者を測るようになるアーティストの時代になります。00年代はキャラの時代と呼ぶべき時代です。人気者のプロフィールを身長・体型・顔立ち・出身地・趣味などの細かな属性に分け、そこから無数の細分化された価値が生み出されます。そのラインナップは「オタクアイドル」「おバカアイドル」「チビアイドル」「貧乏アイドル」と実に多種多様……というか実に細かいところに注目しています。
差異を自己創出する閉鎖系
アイドルは「スターシステム」から機能的に分化して生まれ、その内部でどんどん価値が細分化していっているわけです。ニクラス・ルーマンの言う「機能的システム」です。機能分化は、価値を生み出す仕組み(システム)が入出力のない閉じた状態になることで起こります。「入出力の不在」というのはシステム論の中でも理解するのが難しい概念なのですが、アイドルで言えば「他のものと競争・比較・参照することなく、新しい価値が生まれること」と定義できると思います。それでもやっぱりわかりにくいので例をあげて説明しましょう。80年代前半まで、アイドル歌手というのはあくまで「音楽的価値」を生み出す存在と考えられていました。松本伊代や松田聖子の歌う夢物語は歌謡曲の1ジャンルと見なされていました。だから「松田聖子と北島三郎で歌勝負!」みたいな、今では意味不明な企画も、ありなんですよね。演歌もロックもテクノもアイドルも、全部が日本の歌謡界を盛り上げる要素でした。 松田聖子の価値は、その他のあらゆる歌手との競争・比較・参照によって決まります。つまり「演歌にできなくて松田聖子にできること」は、松田聖子の価値になる。「ロックにできなくて松田聖子にできること」も、松田聖子の価値になる。松田聖子の価値は、他との差異が生み出す価値だったわけです。この「差異」は後々重要な概念となりますから、記憶しておいてください。アイドル価値とは差異のことなのです。
一元的な価値基準上の「スター」 −スターの時代−
キャンディーズあたりをイメージするのが、一番わかりやすいと思うんですが、「アイドル」という言葉が日本に定着する以前の話です。
キャピキャピと跳ね上がるような高い声。
牧歌的で乙女チックなかわいらしいラブソング。
かと思えば男を誘う小悪魔的な歌。
でもライブに行くと歌う曲の半分は洋楽のカバー。
今見ても「過激じゃないの?」と思える超ミニスカート。
曲中にちょくちょく入る「うっふん」「あっはん」といった色っぽい吐息。
「かわいい」から「セクシー」までの振り幅が異様なまでに広いし、アイドルとアーティストの境もあいまい。そんなキャンディーズがトップクラスの人気者になっていたということは示唆的です。「アイドル」という言葉がないというのは、単に言葉がないだけではなく、「アイドル」と呼ぶべき文化領域がまだこの世に生まれていないことを表している。そんな気がします。
アイドル百花繚乱な現代とは違い、まだ歌謡界は女の子のかわいらしさだけを商品化するすべを持っていなかったし、世間も女の子のかわいらしさだけを楽しむ評価基準を持っていなかった。だからキャンディーズを売り出すためにはセクシーも目指すし、かわいさも目指すし、音楽性の高さも目指す。ファンはそれにひたすらついていく。という状態だったのでしょうね。
そこには一元的な評価軸しか存在しません。「いい女」はとにかく「いい女」であって、それがテレビに出るのなら、愛嬌も色気も歌唱力も演技力もトーク力も高いに違いない、とみんなが信じていて、「いい女」は、どの分野においても「いい女」でなければなりませんでした。
現代にも「マルチタレント」と言う人はいますね。歌も演技もルックスも全部すごい福山雅治さんのような人です。けれどそれは特別な事例だと、みんなわかっています。「マルチ」という言葉が表すのは「本来別々の分野なのに、全部できちゃう」という特殊性です。現代の人にとってそれらは本当は別の能力です。
「いい女」と「よくない女」というたった一つの価値基準で、世にいる女性に優劣がつけられる、と多くの人が考えていたからこそ「スター」は色気も愛嬌も求められたのです。そこでは「いろんな良さがある」という相対主義的な価値観は通用しません。70年代において「かわいいけど歌が下手」は半端物の証だったし、「歌はいいけど演技はだめ」というのは欠陥でしかなかった。「カメラの前では完璧だけど、私生活がだらしない」なんていうのは論外です。スキャンダルは御法度です。「スター」は存在そのものが特別でなければならないんです。全存在をかけて「スター」なんです。だから比較対象はとても広い。「吉永小百合にできなくて山口百恵にできる演技」という差異は山口百恵の価値を生む。「和田アキ子にできなくて山口百恵にできる歌」という差異も山口百恵の価値を生む。その他あらゆる人気者との競争・比較・参照によって価値が決められてしまうのです。
「普通の女の子に戻りたい」
キャンディーズがこう言って引退を宣言したのも無理のない話です。彼女たちは「普通」であることが許されかったのですから。山口百恵が結婚して引退をしたのも決して「みんなの夢を壊すから」ではなく、「家庭を守るため」と、みんなが了解していたはずです。山口百恵はみんなが尊敬し、みんながあこがれる「スター」です。
確かに「スター」は王様でもないし、神様でもありません。そういう想像力の遙か上を行く存在ではありません。しかし、一般大衆の想像しうる範囲で、完璧な人間に限りなく近い人たちだと思われていました。
閉じたアイドルシステム −アイドルの時代−
アイドルシステムが、他との競争・比較・参照を必要としない閉鎖系システムになったのは、80年代後期の話です。おニャン子クラブは、演技や歌唱で他と比較しなくてもおニャン子クラブでいることに価値があります。アイドルとしての価値は、アイドル以外と競争・比較・参照せずとも、測れるようになります。中山美穂とか小泉今日子とかもそうです。歌謡界での比較にさらされはするんですけど、歌手としての価値が小さくても、女優としての価値が小さくても、アイドル的におもしろければ価値がある、と見なされる。「小泉今日子にできなくて、中山美穂にできること」が中山美穂の価値になる。アイドル界の内部での競争・比較・参照で、アイドルの価値が生み出される。入力も出力も存在しない閉じたシステム、オートポイエーシス・システムです。
為す仕事による細分化 −アーティストの時代−
90年代には「アイドル」という言葉が聞かれなくなりますが、「ガールズポップ」「女優」「美少女」などといった、細分化したシステムが表に出てくるようになります。その中で「ピュア派」「ダンス派」「正当派」「癒し系」という細分化した価値が創出されます。アイドルがさらに機能分化したと言えます。そこでは「安室奈美恵にできなくてSPEEDにできること」がSPEEDの価値であり、「内田有紀にできなくて広末涼子にできること」が広末涼子の価値である、という風になります。ダンス派はダンス派内部での競争・比較・参照によって価値が生まれ、ピュア派はピュア派内部での競争・比較・参照によって価値が生まれる。アイドルという閉鎖系システムの中に、細分化した「ダンス派」の閉鎖系、「ピュア派」の閉鎖系が作動して、それぞれの価値を他との競争・比較・参照なしに自己創出します。
属性による細分化 −キャラの時代−
さて、00年代はどうでしょうか。モーニング娘。においてメンバーの魅力はどのように創出されるでしょう。「背の高いコと背の低いコ」の差異が、メンバーの属性を決めます。それは世間的に見て長身・短身ということでなくて、モーニング娘。内で一番長身・短身というだけでもキャラの魅力になるわけですね。モーニング娘。内部での差異で「キャラ」という価値が生み出される。00年代の特徴は、モーニング娘。の価値は、モーニング娘。の内部での差異です。そこには他との影響関係もあるにはありますし、他のアイドルとの比較で価値を決める仕組みも一応作動していますが、それよりもメンバー内で差異を生む方が注目に値します。中澤裕子はメンバーの中で、最年長であればいい。飯田圭織はメンバーの中で、一番背が高ければいい。そういう自己創出がモー娘。の魅力でした。アイドルシステムはユニットレベルにまで細分化されたのです。
メンバーを忙しく入れ替えるシステムの成功には、メンバー間の差異が価値に直結するような閉鎖系システムが形成されていたことが不可欠でした。だから、増やしたり減らしたりすればいい、というものではないわけですね。
さらに松浦亜弥ともなると、向かうところ敵なし状態でしたから、他との競争・比較・参照は無意味でした。松浦亜弥の価値創出は「トロピカ〜ル恋して〜る」よりハイテンションな「YEAH!めっちゃホリディ」という差異です。「髪を下ろしているあややにはなくて、髪を上げたあややが持っている魅力」という差異です。松浦亜弥という閉鎖系の内部で、次々と差異(価値)が生み出されるオートポイエーシス・システム。
売れるアイドルの作り方
さて、グループ内部での差異だけで価値を生み出せてしまうようになった現代、もし新たなアイドルを生み出すとしたら、どういうやり方がいいでしょうか。一つは「アイドリング!!!」のように、内部での差異を徹底的に際立たせるやり方が有効でしょう。もう一つは、アイドルオタクが勝手に差異を生み出したくなるような制度を取り入れてしまうことです。AKB48の総選挙ですね。
AKB48の総選挙に投票する人は、別にAKB48のCD売り上げを他のグループよりも上位にしたいと思ってCDを買っているわけではない。AKB48という閉鎖系の中で、「あのメンバーよりこのメンバー」という差異を生み出すシステムが作動しているだけです。楽曲の音楽的価値も「AKB48の新機軸」「古き良きAKB48」といった内部の歴史と比較・参照する中で語られます。
10年代を予想する
最後に、10年代には何が起こるでしょうか。ここまで細分化したアイドル界はさらに機能分化するでしょうか。おそらく、分化します。アイドルがおもしろくあり続ける限り、様々なおもしろさ、様々な価値が発見されますから。2005年に「歌うこと」と「育つこと」の価値が分化しました(「『歌う』と『育つ』の機能分化」)。アイドルが「歌う」ことの価値が閉鎖系を作り、アイドルが「育つ」ことの価値も閉鎖系を為す。それは鉄道オタクの形成している文化を見るとイメージできます。鉄道オタクの世界には「撮る」「乗る」「集める」など、細分化された価値がひしめき合っています。この偏執狂的なまでの細分化こそがオタク文化の目指す先にあるものです。アイドルもそうなるかもしれません。「踊ること」「しゃべること」「映ること」「立つこと」、それぞれのマニアがいて、それぞれの世界観を持ち、それぞれの価値を創出していく。なんか気味悪く感じる部分がなくもないですが、その状態を楽しめるような視点が、これからのアイドルを支えていきそうです。ガキさんの髪型ばっかり語る人がいて、ガキさんの衣装ばっかり語る人がいて、というのが楽しくなる時代。やっぱり今のオタク界でナンバーワンなど目指す必要はないだろうな(「必死にならないオタク学」)。
ハロー!プロジェクトを元気にするには
今いるアイドルがさらなる価値を生み出すためには、内部で差異を生み出し続けるような仕組みをイメージすることです。ハロプロで今、もっとも活発に生成される差異は、ユニット間の差異です。モーニング娘。とBerryz工房と℃-uteの間の差異。「こっちのグループになくて、むこうのグループにあるもの」という差異が価値を生む。だから、ハロプロを元気にするためには、ハロプロの外と競ったり比べたりするんじゃなくて、ハロプロのそれぞれが、それぞれの特徴を他のグループとは違うやり方で強調していくのが一番だと思います。そのために大切なのは、やっぱりハロコン、夏と正月に行われる合同コンサートだと思うんです。ハロコンで、仲良くみんなで歌うお祭り的な演出ばかりではなく、歌合戦的にそれぞれの見せ場を競い合う、みたいな。そういう制度があるといいのではないでしょうか。
2010年07月04日
情報社会は何を変えたのか -必死にならないオタク学-
ふだんガキさんは深夜にブログ更新とかしない方なので安心していたのですが……、夜中に通知が来まくる来まくる;フランスとの時差をこんな形で体感するとは思いませんでした(寝不足)。こんな状況、数年前までは全然予測もつきませんでした。
数年前までは、知りたい情報があんまり手に入らなくて、ファンの側であれこれ想像しないと、メンバーのことはわかりませんでした。楽屋ではどんな話をしているのだろう。どんなもの食べているのだろう。リハーサルってどんなことするんだろう。そういうファンの知りたいことがいっぱいあって、でも手に入る情報は、新曲リリースでいくつか出演するテレビやラジオの番組しかない。それ以外だと、シングルVのメイキング。週1回ペースのレギュラー番組。その程度しか情報がない、というのが数年前の状況でした。いろいろと知りたい気持ちに対して、提示される情報が圧倒的に少ない。そういう状況のとき、私たちは想像力を働かせる。提示されている断片的な情報をパッチワークのように組み合わせて、その作業の先にメンバーの性格とかグループのらしさとかが見えてくる。私たちと、メンバーとを隔てるベールの向こうを求める想像力。それがファンの語りを生む。
現在の状況はまるで逆です。デビュー前のメンバーがツイッターで自分の近況を頻繁に流していたり、本番前の舞台の稽古風景が毎日のように更新されていたり。こちらが知りたいと思うよりも遙かに多量の情報が、どんどん流れてくる。テレビとかステージとか、そうやってメンバーを「推す」経験を積み上げてメンバーのことを知る、という従来の手順とは違って、「推す」ことをする機会の数十倍、情報だけが流れ込んでくる。ファンの語りは従来通りには機能しなくなる。チェックしきれないブログやつぶやきの中では、どうしても共通のものをみんなで語るということは成立しにくくなる。情報が経験を圧倒する。私たちの「行為」を遙かに上回る情報。その中では「行為」の方も形を変えざるを得ないではないか。多すぎる情報が、私たちの行為の意味を変容させ、経験のあり方を塗り替えていく。情報社会の真の恐ろしさはそこにある。
そこではメンバーを知るための想像力も、メンバーに近づくためのいろいろな工夫(握手で粘る技とか、客席で目立つ手段とか)もほとんど意味をなさない。そこでは本来、身体が実感していた適切な距離感というのが破壊されていく。情報社会にもメリットはたくさんあるのは、確かにわかるんです。しかし、時代の変化に興奮よりも戸惑いを覚えてしまうのは、年を取ったせいなのでしょうか。推しているメンバーのブログが日に5・6回更新されるという、夢のような状況は、実際に到来してみると確かに楽しい。楽しいけど、その中でたぶん、自分がガキさんを推す、そのあり方はやっぱり変わっていくことになるのだろうと思います。しかし、時代を後戻りはできないし、そんなことに意味はない。たとえ時計の針を10年戻したところで、00年代を経過して、やがては情報過剰な社会が到来するだけです。過去に戻ることには何の意味もない。ブログを見なきゃいい、という問題でもない。そんな消極的な選択をするくらいなら、その程度の覚悟しか持ち合わせていないなら、アイドルオタクを名乗る資格はない。そんなことなら、「推し」が姿を変えていく、それに耐える道を僕は選ぶ。だから、これから必要なことを考えたい。過剰な情報の中から、自分に必要なものをピックアップすること。そのためには自分の応援がどこに向かっているかを、常に問い直す姿勢が問われるのだろう、と思います。メンバーに近づく、という一つの目標をみんなが持っていた時代とは、全く別のアイドル経験が、待ち受けているような気がします。
ところでここ数年、日本で大きくヒットしたSNSといえば「mixi」、世界で大ヒットしたSNSといえば「Twitter」でしょう。その2つのサービスの共通点は情報が過剰に重くならないための工夫だと思います。「mixi」では情報発信をする際に、友人まで、とか許された友人まで、とか発信の範囲を限定します。自分のホーム画面に入ってくる情報は、社会情勢よりも友人の近況の方が上です。自分にとって必要な情報だけが目に入り込んでくるので、気軽に安心して利用できる。入ってくる段階で情報に選別をかける「情報パーミッションシステム」と言えます。Twitterでは一回の投稿では140字までとその量に制限がかかっています。そして投稿は「つぶやき」、読む行為は「フォロー(後ろからついていくこと)」といって、表現自体が非常に軽い。情報過剰な社会でヒットするサービスとは自然と必要な情報だけが選別されるシステムを採用しています。その情報社会がアイドル推しを変えるとすれば、それはどう変わるのか。きっと、コンプリートとかコレクションとか、全体を網羅する行為がどんどん困難になっていくでしょう。そこで現場では「関東現場コンプリート」とか、コレクションでは「トレーディンググッズだけコンプリート」とか、範囲を限定するような言葉が飛び交うようになります。mixiみたいに。あるいは「見学」とか「会場推し」といった、行為そのものが軽くなるようなことをします。Twitterみたいに。
00年代アイドルが、どれだけ情報を得るか、だったとすれば、10年代からのアイドルは「どの情報を選び、どの情報を選ばないか」が課題となる。そこでは力業とか財力とか、必死さとかに加えて、知恵が大切なのではないでしょうか。
例えば受験を想像してみましょう。300人合格枠がある。その場合、何が何でも1位を目指すことは正解でしょうか。1位だって300位だって、合格は合格だ。ただし301位では困るけれど。この300位というボーダーラインに乗っかるまでは、どんどん点数を上げて質を高めていく必要がある。しかし、300位を超えてしまえば、あとはその状態を維持することにエネルギーを注ぐべきだ。1位を取るために、今の学習スタイルを見直して、失敗するリスクを負ってまでやり方を変えるのというのでは、スマートとはいえない。それは、作った氷が絶対融けないようにと言って、冷凍庫を-273℃に冷やすことの愚かさに近いです。氷を維持するなら0℃以下……-20℃もあれば充分すぎます。エネルギーを使いすぎると、別のところでつけが回ってくる。1番になること、その世界で神様になることを目指す必死系のオタクは互いにしのぎを削る毎日を送る中で、くたくたに疲れ果ててしまってはいないでしょうか。特にアイドルの追っかけは体力、財力ともに消耗する量が尋常ではない。そろそろ「必死」から「維持」へと、「浪費」から「サイクル」へとパラダイム・シフトを起こさないと、この細分化する追っかけの世界ではやっていけないでしょう。
自分が一番目立たなければいけないということはない。オンリーワンでなければならない、ということはない、と開き直ってしまうことが大切。ワン・オブ・ゼム、その他大勢でいいのです。より前に、より高く、より目立つように。そうやって競争が必要な時期は、もう過ぎ去っています。
以前はコレクションを通じて、推しているメンバーのすべてを収集していたつもりでいたけれど、可能な限り娘。の情報はチェックしていたつもりだけれど、ちょっとここ最近、流れ込んでくる情報量はただごとではない。この状況では、おそらく「可能な限りすべて……」という必死さそのものが空回りしてしまうんじゃないか。「ナンバーワンになれなくてもいい」という歌が流行りましたが、情報社会においてはナンバーワンである必要も、オンリーワンである必要すら、ない。合格最低点に乗っかっていれば、それでいい。
彼女の活動にコミットする、そのプロセスを楽しみたい。長時間遠征して、徐々に現場に近づいていく興奮とか、コンサートで好きなコが登場して、気持ちが高ぶるときの身体感覚とか、そういうものを大事にしていきたい。結果よりも過程。結果としての「レス」よりも行為としての「推し」。結果としての「コレクション」ではなく、行為としての「トレーディング」。そういうのが一定の周期で身体を駆け巡ると、私たちの生活がちょっとだけ元気になる。ちょっとだけ活力が流れ込んで、希望みたいなのが見える。そういう必死にならない在り方を探っていくこと、できないでしょうかね。すこし力を抜いて、考えてみたいです。
ベールの向こうを求める想像力
数年前までは、知りたい情報があんまり手に入らなくて、ファンの側であれこれ想像しないと、メンバーのことはわかりませんでした。楽屋ではどんな話をしているのだろう。どんなもの食べているのだろう。リハーサルってどんなことするんだろう。そういうファンの知りたいことがいっぱいあって、でも手に入る情報は、新曲リリースでいくつか出演するテレビやラジオの番組しかない。それ以外だと、シングルVのメイキング。週1回ペースのレギュラー番組。その程度しか情報がない、というのが数年前の状況でした。いろいろと知りたい気持ちに対して、提示される情報が圧倒的に少ない。そういう状況のとき、私たちは想像力を働かせる。提示されている断片的な情報をパッチワークのように組み合わせて、その作業の先にメンバーの性格とかグループのらしさとかが見えてくる。私たちと、メンバーとを隔てるベールの向こうを求める想像力。それがファンの語りを生む。
ファン語りを凌駕する情報社会の到来
現在の状況はまるで逆です。デビュー前のメンバーがツイッターで自分の近況を頻繁に流していたり、本番前の舞台の稽古風景が毎日のように更新されていたり。こちらが知りたいと思うよりも遙かに多量の情報が、どんどん流れてくる。テレビとかステージとか、そうやってメンバーを「推す」経験を積み上げてメンバーのことを知る、という従来の手順とは違って、「推す」ことをする機会の数十倍、情報だけが流れ込んでくる。ファンの語りは従来通りには機能しなくなる。チェックしきれないブログやつぶやきの中では、どうしても共通のものをみんなで語るということは成立しにくくなる。情報が経験を圧倒する。私たちの「行為」を遙かに上回る情報。その中では「行為」の方も形を変えざるを得ないではないか。多すぎる情報が、私たちの行為の意味を変容させ、経験のあり方を塗り替えていく。情報社会の真の恐ろしさはそこにある。
情報が「推し」の在り方を変容させる
そこではメンバーを知るための想像力も、メンバーに近づくためのいろいろな工夫(握手で粘る技とか、客席で目立つ手段とか)もほとんど意味をなさない。そこでは本来、身体が実感していた適切な距離感というのが破壊されていく。情報社会にもメリットはたくさんあるのは、確かにわかるんです。しかし、時代の変化に興奮よりも戸惑いを覚えてしまうのは、年を取ったせいなのでしょうか。推しているメンバーのブログが日に5・6回更新されるという、夢のような状況は、実際に到来してみると確かに楽しい。楽しいけど、その中でたぶん、自分がガキさんを推す、そのあり方はやっぱり変わっていくことになるのだろうと思います。しかし、時代を後戻りはできないし、そんなことに意味はない。たとえ時計の針を10年戻したところで、00年代を経過して、やがては情報過剰な社会が到来するだけです。過去に戻ることには何の意味もない。ブログを見なきゃいい、という問題でもない。そんな消極的な選択をするくらいなら、その程度の覚悟しか持ち合わせていないなら、アイドルオタクを名乗る資格はない。そんなことなら、「推し」が姿を変えていく、それに耐える道を僕は選ぶ。だから、これから必要なことを考えたい。過剰な情報の中から、自分に必要なものをピックアップすること。そのためには自分の応援がどこに向かっているかを、常に問い直す姿勢が問われるのだろう、と思います。メンバーに近づく、という一つの目標をみんなが持っていた時代とは、全く別のアイドル経験が、待ち受けているような気がします。
選択の時代
ところでここ数年、日本で大きくヒットしたSNSといえば「mixi」、世界で大ヒットしたSNSといえば「Twitter」でしょう。その2つのサービスの共通点は情報が過剰に重くならないための工夫だと思います。「mixi」では情報発信をする際に、友人まで、とか許された友人まで、とか発信の範囲を限定します。自分のホーム画面に入ってくる情報は、社会情勢よりも友人の近況の方が上です。自分にとって必要な情報だけが目に入り込んでくるので、気軽に安心して利用できる。入ってくる段階で情報に選別をかける「情報パーミッションシステム」と言えます。Twitterでは一回の投稿では140字までとその量に制限がかかっています。そして投稿は「つぶやき」、読む行為は「フォロー(後ろからついていくこと)」といって、表現自体が非常に軽い。情報過剰な社会でヒットするサービスとは自然と必要な情報だけが選別されるシステムを採用しています。その情報社会がアイドル推しを変えるとすれば、それはどう変わるのか。きっと、コンプリートとかコレクションとか、全体を網羅する行為がどんどん困難になっていくでしょう。そこで現場では「関東現場コンプリート」とか、コレクションでは「トレーディンググッズだけコンプリート」とか、範囲を限定するような言葉が飛び交うようになります。mixiみたいに。あるいは「見学」とか「会場推し」といった、行為そのものが軽くなるようなことをします。Twitterみたいに。
00年代アイドルが、どれだけ情報を得るか、だったとすれば、10年代からのアイドルは「どの情報を選び、どの情報を選ばないか」が課題となる。そこでは力業とか財力とか、必死さとかに加えて、知恵が大切なのではないでしょうか。
必死にならないオタク学
例えば受験を想像してみましょう。300人合格枠がある。その場合、何が何でも1位を目指すことは正解でしょうか。1位だって300位だって、合格は合格だ。ただし301位では困るけれど。この300位というボーダーラインに乗っかるまでは、どんどん点数を上げて質を高めていく必要がある。しかし、300位を超えてしまえば、あとはその状態を維持することにエネルギーを注ぐべきだ。1位を取るために、今の学習スタイルを見直して、失敗するリスクを負ってまでやり方を変えるのというのでは、スマートとはいえない。それは、作った氷が絶対融けないようにと言って、冷凍庫を-273℃に冷やすことの愚かさに近いです。氷を維持するなら0℃以下……-20℃もあれば充分すぎます。エネルギーを使いすぎると、別のところでつけが回ってくる。1番になること、その世界で神様になることを目指す必死系のオタクは互いにしのぎを削る毎日を送る中で、くたくたに疲れ果ててしまってはいないでしょうか。特にアイドルの追っかけは体力、財力ともに消耗する量が尋常ではない。そろそろ「必死」から「維持」へと、「浪費」から「サイクル」へとパラダイム・シフトを起こさないと、この細分化する追っかけの世界ではやっていけないでしょう。
オンリーワンになれなくてもいい
自分が一番目立たなければいけないということはない。オンリーワンでなければならない、ということはない、と開き直ってしまうことが大切。ワン・オブ・ゼム、その他大勢でいいのです。より前に、より高く、より目立つように。そうやって競争が必要な時期は、もう過ぎ去っています。
以前はコレクションを通じて、推しているメンバーのすべてを収集していたつもりでいたけれど、可能な限り娘。の情報はチェックしていたつもりだけれど、ちょっとここ最近、流れ込んでくる情報量はただごとではない。この状況では、おそらく「可能な限りすべて……」という必死さそのものが空回りしてしまうんじゃないか。「ナンバーワンになれなくてもいい」という歌が流行りましたが、情報社会においてはナンバーワンである必要も、オンリーワンである必要すら、ない。合格最低点に乗っかっていれば、それでいい。
結果よりも行為として
彼女の活動にコミットする、そのプロセスを楽しみたい。長時間遠征して、徐々に現場に近づいていく興奮とか、コンサートで好きなコが登場して、気持ちが高ぶるときの身体感覚とか、そういうものを大事にしていきたい。結果よりも過程。結果としての「レス」よりも行為としての「推し」。結果としての「コレクション」ではなく、行為としての「トレーディング」。そういうのが一定の周期で身体を駆け巡ると、私たちの生活がちょっとだけ元気になる。ちょっとだけ活力が流れ込んで、希望みたいなのが見える。そういう必死にならない在り方を探っていくこと、できないでしょうかね。すこし力を抜いて、考えてみたいです。