ベールの向こうを求める想像力
数年前までは、知りたい情報があんまり手に入らなくて、ファンの側であれこれ想像しないと、メンバーのことはわかりませんでした。楽屋ではどんな話をしているのだろう。どんなもの食べているのだろう。リハーサルってどんなことするんだろう。そういうファンの知りたいことがいっぱいあって、でも手に入る情報は、新曲リリースでいくつか出演するテレビやラジオの番組しかない。それ以外だと、シングルVのメイキング。週1回ペースのレギュラー番組。その程度しか情報がない、というのが数年前の状況でした。いろいろと知りたい気持ちに対して、提示される情報が圧倒的に少ない。そういう状況のとき、私たちは想像力を働かせる。提示されている断片的な情報をパッチワークのように組み合わせて、その作業の先にメンバーの性格とかグループのらしさとかが見えてくる。私たちと、メンバーとを隔てるベールの向こうを求める想像力。それがファンの語りを生む。
ファン語りを凌駕する情報社会の到来
現在の状況はまるで逆です。デビュー前のメンバーがツイッターで自分の近況を頻繁に流していたり、本番前の舞台の稽古風景が毎日のように更新されていたり。こちらが知りたいと思うよりも遙かに多量の情報が、どんどん流れてくる。テレビとかステージとか、そうやってメンバーを「推す」経験を積み上げてメンバーのことを知る、という従来の手順とは違って、「推す」ことをする機会の数十倍、情報だけが流れ込んでくる。ファンの語りは従来通りには機能しなくなる。チェックしきれないブログやつぶやきの中では、どうしても共通のものをみんなで語るということは成立しにくくなる。情報が経験を圧倒する。私たちの「行為」を遙かに上回る情報。その中では「行為」の方も形を変えざるを得ないではないか。多すぎる情報が、私たちの行為の意味を変容させ、経験のあり方を塗り替えていく。情報社会の真の恐ろしさはそこにある。
情報が「推し」の在り方を変容させる
そこではメンバーを知るための想像力も、メンバーに近づくためのいろいろな工夫(握手で粘る技とか、客席で目立つ手段とか)もほとんど意味をなさない。そこでは本来、身体が実感していた適切な距離感というのが破壊されていく。情報社会にもメリットはたくさんあるのは、確かにわかるんです。しかし、時代の変化に興奮よりも戸惑いを覚えてしまうのは、年を取ったせいなのでしょうか。推しているメンバーのブログが日に5・6回更新されるという、夢のような状況は、実際に到来してみると確かに楽しい。楽しいけど、その中でたぶん、自分がガキさんを推す、そのあり方はやっぱり変わっていくことになるのだろうと思います。しかし、時代を後戻りはできないし、そんなことに意味はない。たとえ時計の針を10年戻したところで、00年代を経過して、やがては情報過剰な社会が到来するだけです。過去に戻ることには何の意味もない。ブログを見なきゃいい、という問題でもない。そんな消極的な選択をするくらいなら、その程度の覚悟しか持ち合わせていないなら、アイドルオタクを名乗る資格はない。そんなことなら、「推し」が姿を変えていく、それに耐える道を僕は選ぶ。だから、これから必要なことを考えたい。過剰な情報の中から、自分に必要なものをピックアップすること。そのためには自分の応援がどこに向かっているかを、常に問い直す姿勢が問われるのだろう、と思います。メンバーに近づく、という一つの目標をみんなが持っていた時代とは、全く別のアイドル経験が、待ち受けているような気がします。
選択の時代
ところでここ数年、日本で大きくヒットしたSNSといえば「mixi」、世界で大ヒットしたSNSといえば「Twitter」でしょう。その2つのサービスの共通点は情報が過剰に重くならないための工夫だと思います。「mixi」では情報発信をする際に、友人まで、とか許された友人まで、とか発信の範囲を限定します。自分のホーム画面に入ってくる情報は、社会情勢よりも友人の近況の方が上です。自分にとって必要な情報だけが目に入り込んでくるので、気軽に安心して利用できる。入ってくる段階で情報に選別をかける「情報パーミッションシステム」と言えます。Twitterでは一回の投稿では140字までとその量に制限がかかっています。そして投稿は「つぶやき」、読む行為は「フォロー(後ろからついていくこと)」といって、表現自体が非常に軽い。情報過剰な社会でヒットするサービスとは自然と必要な情報だけが選別されるシステムを採用しています。その情報社会がアイドル推しを変えるとすれば、それはどう変わるのか。きっと、コンプリートとかコレクションとか、全体を網羅する行為がどんどん困難になっていくでしょう。そこで現場では「関東現場コンプリート」とか、コレクションでは「トレーディンググッズだけコンプリート」とか、範囲を限定するような言葉が飛び交うようになります。mixiみたいに。あるいは「見学」とか「会場推し」といった、行為そのものが軽くなるようなことをします。Twitterみたいに。
00年代アイドルが、どれだけ情報を得るか、だったとすれば、10年代からのアイドルは「どの情報を選び、どの情報を選ばないか」が課題となる。そこでは力業とか財力とか、必死さとかに加えて、知恵が大切なのではないでしょうか。
必死にならないオタク学
例えば受験を想像してみましょう。300人合格枠がある。その場合、何が何でも1位を目指すことは正解でしょうか。1位だって300位だって、合格は合格だ。ただし301位では困るけれど。この300位というボーダーラインに乗っかるまでは、どんどん点数を上げて質を高めていく必要がある。しかし、300位を超えてしまえば、あとはその状態を維持することにエネルギーを注ぐべきだ。1位を取るために、今の学習スタイルを見直して、失敗するリスクを負ってまでやり方を変えるのというのでは、スマートとはいえない。それは、作った氷が絶対融けないようにと言って、冷凍庫を-273℃に冷やすことの愚かさに近いです。氷を維持するなら0℃以下……-20℃もあれば充分すぎます。エネルギーを使いすぎると、別のところでつけが回ってくる。1番になること、その世界で神様になることを目指す必死系のオタクは互いにしのぎを削る毎日を送る中で、くたくたに疲れ果ててしまってはいないでしょうか。特にアイドルの追っかけは体力、財力ともに消耗する量が尋常ではない。そろそろ「必死」から「維持」へと、「浪費」から「サイクル」へとパラダイム・シフトを起こさないと、この細分化する追っかけの世界ではやっていけないでしょう。
オンリーワンになれなくてもいい
自分が一番目立たなければいけないということはない。オンリーワンでなければならない、ということはない、と開き直ってしまうことが大切。ワン・オブ・ゼム、その他大勢でいいのです。より前に、より高く、より目立つように。そうやって競争が必要な時期は、もう過ぎ去っています。
以前はコレクションを通じて、推しているメンバーのすべてを収集していたつもりでいたけれど、可能な限り娘。の情報はチェックしていたつもりだけれど、ちょっとここ最近、流れ込んでくる情報量はただごとではない。この状況では、おそらく「可能な限りすべて……」という必死さそのものが空回りしてしまうんじゃないか。「ナンバーワンになれなくてもいい」という歌が流行りましたが、情報社会においてはナンバーワンである必要も、オンリーワンである必要すら、ない。合格最低点に乗っかっていれば、それでいい。
結果よりも行為として
彼女の活動にコミットする、そのプロセスを楽しみたい。長時間遠征して、徐々に現場に近づいていく興奮とか、コンサートで好きなコが登場して、気持ちが高ぶるときの身体感覚とか、そういうものを大事にしていきたい。結果よりも過程。結果としての「レス」よりも行為としての「推し」。結果としての「コレクション」ではなく、行為としての「トレーディング」。そういうのが一定の周期で身体を駆け巡ると、私たちの生活がちょっとだけ元気になる。ちょっとだけ活力が流れ込んで、希望みたいなのが見える。そういう必死にならない在り方を探っていくこと、できないでしょうかね。すこし力を抜いて、考えてみたいです。